2019年の年越しパーティも終わり、楽しみながら新年を迎えていた。
新たな留学生も加わり、心機一転楽しみながら頑張っていた頃だった。
朝起きてオフィスに行くとなんかみんな騒いでいる。
一体何があったんだろうと思った。
「中国から新型ウイルスがでた」
前日に出かけていて、眠気もあったので、
「え?いつもことじゃない?なんでみんなそんなに世界の終わり的な表情しているんだ」
そんな風に感じていた。
特に特別なことじゃない感じ。
そんなことが起きたが、いつもと変わらない日常を過ごしていた。
クソ暑い時期にマスクなんて出来ないし、旅行の計画も考えていた。
そうこうしている内に、韓国で教会の集団感染、日本でダイヤモンド号での集団感染がニュースになっていた。
ちょっと心配。
でもこの頃の自分は「まあその内良くなるだろう」と考えていた。
自体が急変したのは3月に入ってからだった。
フィリピンでは1ヶ月間ほど新規感染者が報告されておらず、安堵していたが各地で新規感染者が次々と報告され、マスクやアルコール消毒液の争奪戦が始まっていた。
スーパーに行ってもハンドソープすら売り切れている状態だった。
韓国から薄っぺらい粗悪品のマスクを高額で何千枚も注文したのを覚えている。
学校では外出禁止などの措置も開始し、緊張が張り詰めた環境へと激変した。
その後すぐにマニラでの感染者急増が報告され、フィリピン大統領令により首都圏のロックダウン (都市封鎖) が始まった。
英語を使って仕事をしてきたが、ロックダウンという単語を使うのは初めてだった。
首都圏の封鎖によりマニラからの帰国便にキャンセルが続出したり、他の空港からの便もキャンセルが相次いだ。
地域間の各地でチェックポイントという検問所も設置され、許可がないと地域間をまたぐ移動は困難になってしまった。
まだ感染者は100人にも満たずだったが、フィリピン政府のコロナウイルスに関する措置は迅速であった。
3月中旬に差し掛かったとき、フィリピン政府から驚きの決定が下される。
「フィリピン全土の全ての学校を閉鎖する」
「36時間以内にフィリピン全土の空港を閉鎖する」
校内に衝撃が走った。
こんなことがあるだろうか。
つまり36時間後は帰国が不可能になるという通知であった。
3月の春休みシーズンだったので4月から大学や高校が始まる学生ばかりで帰国難民になることはできない。
ましてや医療設備の整っていないフィリピンで。
現場も大混乱だった。
何がベストかなんて誰にもわからない。
初めてのことだらけで対処の仕方も手探り状態。
学校が的確な方針を出すのは困難だった。
現場が混乱する中、日本の事情を踏まえると、大学へ行けなくなったら今後の生活にかなりの影響が及ぶ。
またある大学からは帰国させてほしいという要望も届いていた。
もう時間がない。
最寄りの国際空港の日本便はすべて運休。
マニラに行くしか帰る道はないのだ。
封鎖されていて資格のある特別なドライバーしかマニラへ入域ができない。
外国人は帰国便のフライトチケットを持っていて、尚且つ出発時刻の12時間以内にしかマニラへ入ることができない。
検問所がいくつも設置され、体温がチェックされる。
1つでもクリアできないと引き返すことになる。
私たちに様々なハードルが立ちはだかったのであった。
それでも同時進行ですべてを解決しないといけない。
予約可能なフライトチケットも残りわずか。
100人いる学生が一気に帰国便を探し始めた。
関空便や地方便が満席となり、東京経由でのみ帰国可能。
運賃が高騰している。
予約完了してもキャンセルになったり、
周辺諸国も外国人の入国と乗り継ぎまでも禁止し、直行便のみが選択肢。
検索しても検索してもフライトが全くない状態も続いた。
それでもなんとか全員分の帰国便の予約が完了。
ドライバーや車の手配はまだできていない。
本当に帰れるか1秒おきに心配する感じであった。
ちなみに私は自分のことなど心配する時間はなく、フィリピンに留まることにした。
自分の人生どうのこうの考えている場合ではなかった
こんな大混乱の中、外出もできないのでお別れ会もなしで次々に帰国していった。
1番初めに学校を出たグループは特に心配だったのを覚えている
そしてあっという間に最後のグループが無事に帰国していった。
任務完了。
急に静まりかえった校内。
賑やかだった校内がゴーストタウンのようになっていた。
落ち着いたが自分にはまだ色々と後処置する必要があり、各地からの問い合わせへの返信が大変だった。
コロナは自然災害。
でも時にはあたかも自分のせいにされ、文句を言ってくる人もいた。
呆れて呆然と立ち尽くしたこともあった。
とりわけみんなが帰って寂しく、悲しく、1人取り残された感が凄かった。
仲が良かった友達とも急にお別れ。
本当に辛かった。
これからこんな環境でどうしていけばいいんだろう。
学校はすぐにオンラインサービスを開始して、やることは山ほどあったけど、虚無感が半端なかった。
コロナで世界で頑張っている日本人が次々と帰国している中、自分は静まりかえった校内でポツンと過ごす毎日。
気がおかしくなりそうだった。
それでもスタッフを含め何人かは残っていたので、みんなでスポーツをしたり、本当は禁止されている校内での飲酒も許可された。
買い物にも行けないし、コロナの感染者が急増しているし、自分の感染リスクも考えたらここにいるのが怖くもなった。
正しくこれが「サバイバル生活」かと思った。
生き残りをかけた生活というような感じであった。
そんな中フィリピン政府が新しい方針を発表。
「空港は閉鎖しない」
「外国人の帰国は認める」
えっ!今更何を言ってるんだろう。
私は呆気に取られていた。
まあでもあの時、帰国させていなかったら今頃ひどい環境でやることもなく無駄な生活を送らせていたのは間違いない。
3月も後半に差し掛かった頃だった。
両親も心配しているし、これからどうなるかわからないし、とりあえず帰国したいと思った。
校内でやる仕事は終わったし、リモートでも働ける。
ここに居残る必要性がなくなった。
そして校長と親とも相談し、帰国を決定した。
正直、安心した。
やっと帰れる。
そんな気分だった。
この頃はもう東京便しかなかったので、高かったけど8万円ほどで週末の29日の出発する便で予約を取った。羽田で乗り継ぎで大阪まで。
イエイ!ちょっと元気というか希望が出た。
そして3月26日の夜に友達から電話が入った。
日本政府。
「3月28日午前0時以降にフィリピンを出発する便から帰国者を含め全員強制PCR検査と14日間の隔離措置」
「公共交通機関の使用は一切認めない」
「空港周辺のホテルで14日間待機」
「全額自己負担」
など様々な情報が飛び交っていた。
つまり、28日以降に帰国すると東京で14日間滞在。
1日1万円だとすると色々込みで20万円ほど追加出費が必要かもしれない。
冗談じゃない。
この頃は1ヶ月もすれば落ち着いてまた戻れると思っていたから、日本へ帰っても隔離されて高い金を払ってまたすぐにフィリピンに帰ると思っていたので最悪な情報だった。
この規制が始まる前にどうしても帰りたい。
なんで自分だけ高額出費しなければいけないんだろう。
この時初めて首相にイライラしたのを覚えてる。笑
でももう26日の夜。
無事に帰国するには27日の便を死守しないといけない。
この時はJALとANAのみ運行していたのでウェブサイトで空席を確認してみた。
・・・
「満席のため予約可能な空席は見つけられませんでした」
どのクラスでも満席。
詰んだ。
みんな考えることは同じだった。
悪あがきではないが、航空系の会社や旅行会社に勤めている友達に片っ端から連絡してみた。
どうにかチケットを手配してほしい。
でももう夜の11時に差し掛かっていて、会社システムも作動していない。
自力で公式サイトからの予約するしかなかった。
何回検索しても空席なし。
もう最悪だ。
日をまたぐ前に最後の希望でもう一回だけ検索ボタンを押してみよう。
そう思った。
神様お願いします!!
JALのサイトで検索をかけた時、衝撃が走った!!
あった!!
空席が出ている!!!
何!?誰かキャンセルした!?
残り1つの空席。
午後13時過ぎに出発する便。
奇跡だった。
もうこれは争奪戦。
予約するしかない。
マニラへの車ので手配もできていないけどなんとかなる。
必要事項をダッシュで入力した。
途中で何回もタイピングをミスして舌打ちの連発。笑
もっとタイピングの練習しとけよって自分に苛立った。
そしてなんとか支払い画面までいくことができた。
そしていざ支払い!
あれ?ない?
クレジットカードがない。
あっ!!
自分の部屋に置きっぱだった!!
*この時は校内のオフィスにいた。
途中でインターネットが切れて予約やり直しになるのも怖立ったので、全力疾走で部屋に戻った。
数年ぶりの全力疾走。
いや、人生であんなに一生懸命走ったことはなかっただろう。
何かに追われているような感じ。
距離は多分、200メートルぐらい。
往復で400メートルかな。
息を切らしながらクレジットカード情報を打ち込む。
何度も番号を確認して、誰もいないオフィスの中で1人「オッケー!」と叫ぶ。
そしていざ予約完了ボタンを押す!
結果は、、、、
無事に予約完了!!
メールもきた!!
やったー!!!
ちゃんと帰れる!!
ついにやりました!!!!
まるでラスボスを倒した感覚!!
一安心したのも束の間。
どうやってマニラまで行こうか。
知り合いのドライバーに電話をかけても出ない。。。
もう夜中だしな。
メッセージを残しておいた。
最悪、バスで帰る。
予約不可だから乗れなかったら終わりだけど。
部屋に戻ってパッキングを済ませた頃はもう朝の4時頃、まだ確実に帰れるかわからない中少し眠りについた。
朝6時に起きて携帯を見たら一件のメッセージが残っていた。
マニラ行けるから向かいにいくよ。
7時半ぐらい。
良かった。
本当に良かった。
ありがとう!ドライバー!
あんたのことは一生忘れないぜ。
全然寝れてないし、クラクタで辛かったけど無事に車に乗ることができた。
まだ残っているスタッフもいたけど、心の中でごめんね。
先帰るけど頑張ってね!
もう次会えるのかわからないけど。
悲しかった。
何もかも終わったような気がした。
最後はたくさんの人に見送ってもらいたいと夢見てたけど、誰もいない。
道中は検問がいくつもあって、熱を図られた。
セーフ。
良かった。。。
検問があったので超渋滞してたけど、無事にマニラ空港に到着。
もうチェックインが始まっている時間だけど、みんな並んでる。
そのまま自分も列に並んだ。
空港の中は厳戒態勢。
中国便に乗る人たちは全身防護服を着ていてまるで宇宙服。
自分も怖かったので15分おきにアルコール消毒をした。
そうしている内に搭乗時間。
でもチェックインも開始していない。
なんで?
まさかキャンセルとか!?
突然心配になった。
ここまできてキャンセルで翌日出発とかになったら何かも意味がない。
そしたらスタッフがでてきた。
遅延です。
出発時刻は、、、
夜の9時頃。
え!
嘘だ!!
感染予防のためチェックインできるのも夕方から。
チェックインカウンターの前で数時間待つことになった。
既に5時間ぐらい待ってるけど。
トイレに行きたいけど、荷物が危ないし、抜けたら長蛇の列に並び直さないといけない。
必死にトイレを我慢した。
手の平の我慢のツボとやらを必死に押していたのを覚えている。
朝から何も食べてないし、空腹もヤバかった。
そしてようやくチェックイン開始。
自分の番になった。
席は3人がけの真ん中か。。
まあいいや。
帰れるだけマシ。
でも成田行きが空港営業時間によって羽田行きに変わっていた。
着いたら夜中の2時頃かな。
親にお願いして羽田近くのホテルを予約してもらった。
*後からJALが品川プリンスホテルなどを無料で手配してくれると案内があった。。。
無事にチケットをもらってゲートに入ろうとした時、
ふと思った。
ゲートを潜ったらもう帰ってこれないけど、中の店は営業しているのだろうか。
ガードマンに聞いてみた。
中はどこも営業していないよ。
空腹で死にそうだったので、ゲートを潜る前に近くのファーストフード店に行った。
また並んでる。
たかが格安ファーストフードで行列。
しかも感染防止のために1人ずつ入店。
待ち時間は多分1時間ぐらい。
ここはUSJか!と思った。
もうお腹が空き過ぎたので合計2000円分ぐらいどっさり頼んだ!
全部自分のもの!
食べる場所がないので外に出て、灼熱地獄、太陽ガンガンに当たりながらも1人でハンバーガーやチキンにむさぼりついた。
恥なんて気にしないぜ。
そして満腹になって出国ゲートを潜った。
JALの待合いには既にたくさんの人が居たので、感染予防のために少し離れたところに座った。
搭乗時間まで後3時間ぐらいある。
寝るのは怖いし、携帯でニュースやインスタ、ユーチューブをずっと見てた。
結構寒い。
横におっちゃ座ってきて、風邪を引いているのか鼻をすすってたので即退散。
少し時間が経ったころ、JALから無料の弁当が配布された。
えっ! さすがJAL!
わざわざファーストフード店に行かなくても良かった。。。笑
まあいいや。
お腹いっぱいだったけど、暇つぶしのために食べた。
そして無事に機体が見えて搭乗開始。
ついに規制前の最後の便、最後に予約した席で帰国することが出来ました。
まだコロナのことがわかっていない3月下旬、混乱した状況での帰国でした。
フィリピン脱出劇はこうして幕を閉じたのだった。
*当時はフィリピン国内の感染者は日本の感染者数より大幅に下回っていました。